慎二は瞳を閉じた。心置きなく堪能したいから。
顎をあげて見上げるようにすると、強い芳香が漂ってくる。とは言っても、少し早咲きの桐の花は遥か頭上。手を伸ばしても届かない。香りも、なにも頭がクラクラするほどといった強さは無い。下に落ちてくればまた別だが。
微かに口も開き、胸いっぱいに吸い込んだところで、背後から皺枯れた声が掛けられた。
「立ったまま寝るな」
小さく嘆息し、ゆっくりと振り返る。
「アンタじゃあるまいし、立ったままでなんて寝るかよ」
「ワシは立つことすらままならんのに、立ったままで寝るなんて芸当はできん」
「でも、どこででも寝るだろ?」
「年寄りと子供は寝るのが仕事だ」
「あっそ」
素っ気無く答える。祖父の霞流栄一郎は、車椅子を押していた男性に手で合図をし、下がらせた。
春の庭に、二人だけ。それなりに柔らかくなった風が、慎二の金糸をサラサラと揺らす。
「相変わらずの見事な庭じゃな。見惚れるよ」
「自分の家の庭だろ。なに自惚れてんだよ」
「半分は木崎の庭みたいなものじゃがな」
どう返してよいものやら言葉に詰まる孫などヨソに、ゆっくりと見渡す。
「槿花はもう終わりかの。先週末あたりが花見日和じゃったからな」
「あさがお?」
そんな季節外れな花などどこにある?
周囲へ視線を巡らせる孫に、栄一郎は口元を緩めた。
「あそこだ」
指差す先には、一本の桜。
「あさがお?」
「桜の事を槿花と言っていた頃もあったらしい。真偽は知らんが、桜を槿花に例えた和歌もあったとか」
「なんで?」
「どちらも儚い」
そうして栄一郎はしばし視線を虚ろにさせ、小さく口を開く。
「あさかほの咲しまかきの山さくら これはゆふへにあはぬ日もなし」
「聞いたことないな」
「大して有名でもないはずだ。夫木和歌抄に収められている」
「へぇ」
感心するというよりも、どことなく小バカにするような視線。
「アンタにそんな風流な趣味があるとは知らなかったよ」
「受け売りじゃよ」
孫の嫌味などサラリと流し、瞳を細める。目尻の皺が増える。
「アサガオとは、そもそもは儚い花という意味で、複数の花の総称みたいなものじゃったらしい。夏休みに小学生が観察日記を付けるような特定の花を指すのではなく、桜などのようにすぐに散ってしまうような、もしくはすぐに萎んでしまうような花の事。万葉集には秋の七草としてアサガオという言葉が出てくるらしいが、これは桔梗か槿の事なんじゃないかと言われているらしいな。万葉集の方は朝の顔と書くらしいが、槿の花と書いてアサガオと読ませているものも多いそうじゃ。槿の花と書くのだから、そもそもは槿の事をアサガオと呼んでいたのかもしれないなどとも聞いたことはある。槿は次々と花を咲かせるから生命力の強い花というイメージもあるが、これもやはり朝咲いて夕方には萎んでしまうからの」
そこで一息付く。老体には少し長すぎるおしゃべりだったようだ。出てくるらしい、言われているらしい、など言っているのだから、受け売りというのは本当だろう。だが、人から聞いた話をまるで自分の知識としてヒケラカしているようには聞こえない。
「あの桜も、すぐに散るな」
視線の遠くで、桜色が揺れる。
「ワシも、そう長くはない」
慎二は無言でチラリと見るだけ。
年寄りがよく口にするボヤきだ。そう長くはないと言う人間に限ってやたらと長生きをするものだ。
つまらなさそうに自分の後頭部を眺める孫の視線に気付いているのだろうか? 栄一郎はほうっと息を吐いた。
「ワシが死んだら、この屋敷も消えるな」
「へ?」
「知っておろう? 霞流は、昔ほどは潤ってはいない」
家業を継いで知多で製糸業を営む父。だがその業績に昔ほどの勢いが無いのは慎二も知っている。
別に驚く事ではない。この業界が安い外国製品に苦戦しているのは巷でも有名だ。日本を代表するような大手企業があっさりと外国企業に買収されるような時代。
こんな時代錯誤な屋敷、財を圧迫するだけだ。
「早めに次の住処を探しておけよ」
「アンタに心配される覚えはないよ」
孫の言葉を鼻で笑う。定職にも就かず、ブラブラと夜の街を徘徊するような情けない男がよく言うものだ。
だが栄一郎は、咎める事はしない。
咎めたところで、どうなるというのだ。
深く息を吐く。
「真留駅も消える、か」
その一言に、慎二の眉がピクリと揺れた。それに気付かず、栄一郎は自嘲気味に瞳を閉じた。
「古いモノは、皆、消える」
「なに浸ってんだよ。似合いもしないのに」
嫌味を含めながら呟いたが、その瞳には別の光が宿っていた。
真留駅。
その昔、まだ路面電車が現役だった頃、その一つの駅として活躍していた古い駅舎を、栄一郎は市から買い取った。そうしてその管理を、使用人の木崎に委ねた。だがそこは今、別の人物に管理されている。
好き放題に使っていると言った方が正しいのかもしれないな。
心内で呟くが、笑えない。
大迫美鶴。
知らぬうちに、唇を噛み締める。
よりにもよって、あんなヤツの目の前で、あのような醜態を。
思い出すだけでも腸が煮えくり返りそう。
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